けものフレンズ(アニメ) -凡人の感想・ネタバレ-

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執筆日2017年4月12日

評論

未だその熱冷めやらない感のある希代のヒット作品となったアニメ「けものフレンズ」についての評価を、4月も半ばに差し掛かってきたこのタイミングで遅れながら書こう。
といっても評価というより、「なぜこの作品がここまでヒットしたのか?」というところにスポットを当てて色々と論じていこうと思う。
そんな記事もすでに多数存在するが、どれも自分の納得のいくものではなかったので今回書きたくなったというのが大きい。

自分が考えるこの作品がここまで大ヒットした理由は4つある。
「萌えアニメではない」「気取らない作風」「サーバルの存在」「考察し甲斐のあるストーリー」
である。1つずつ分けて書いていきたい。

萌えアニメではない

もはや地域おこしにアニメキャラを使うなどという話題も珍しくない時代だが(というかそういうのももはややり尽くされ聞かなくなった時代だが)、未だにアニメというものに偏見を持つ人間というのは多いだろう。
「アニメ」と聞いて、オタクよりではない人間が「うわっ、アニメとかキモい」と思ってしまう最大の理由は、アニメというものがいわゆる萌え=性的に可愛く魅力的に登場キャラクターを演出することが多いことに起因していると思う。女キャラなら可愛く、男キャラなら格好良く。作り手としてもアニメの登場キャラを客観的に見てどこまで「魅力的に見えるか」に注力しているということはままある。ツンデレだのクーデレだのなんだのといったテンプレ的な性格づけ、胸が大きく、肌を露出したデザインのキャラクター。そういうキャラが演出するきわどいサービスシーン。そういった要素すべてが視聴者を「性的に魅力的にさせるもの」なのである。どんな硬派ぶったアニメ作品であっても、何度かはまず間違いなくきわどいシーンは存在する。
これらの演出は確かに性的に盛んな年代の視聴者を引き寄せることはできるだろう。だが、もう2010年代も終わりに差し掛かりつづある今、そのほとんどが何らかのテンプレに落とし込めるようになってしまっている。 アニメにおいてある種の基本事項であるこれらの要素をちりばめたところで、何らのサプライズもないのだ。むしろ胸揺れなどのお色気シーンをちりばめれば「あーまたこういうのね」などと冷めた目で見てしまう部分すらある。そして、そのキャラクターとは逆の性別の視聴者を遠ざけてしまうことにもなる。極端な例かもしれないが、乳揺れやパンチラパンモロを過剰に行うような作品を女性はそう進んで見ようとはしないだろう。男同士がやけにべたべたするような腐アニメは一般的な男なら観ようとはしないだろう。
2017年の春アニメも始まった時期だが、今ざっとそれらを思い浮かべてみて、自分が見た作品その全てでそういう部分はやはり存在してしまっている。

…というかここまで性的性的と何か間違った表現をしてきてしまったかもしれない。
要するに、ここで言っているのは良い作画でキャラクターの顔を描くだけである意味アウトということなのだ。パンチラだのなんだの極端な例を書いてしまった後だが、登場人物の顔を見て可愛い、カッコイイと視聴者が思ってしまったらアウトなのだ。よく伝わらないかもしれないが、ここで自分が言っている「性的に魅力的」というのはそういうことだ。見た目が格好良いキャラなら、美人のキャラなら、スタイルのいいキャラなら、本当に完全に「劣情」と無関係で済ませることができるだろうか?一瞬でも繋がってしまわないか?それは恐らく困難だろう。性的に魅力的というのはそういう、広義での意味と捉えてほしい。

だがこのけものフレンズはというと、露出が多いキャラクターは多いことは多いのだが、全12話のうちただの一度も、「キャラクターを性的に魅力的に演出する」ことはなかった。無論登場するキャラクターを可愛いと思うことはあるだろう。だがそれはおそらくまさに、動物を見て可愛いと思うような、あるいは無垢な子供を見て可愛いと思うような感情のはずだ。例えばローアングルカメラでキャラを舐めまわしたり、セルリアンと戦って服が破けてキャー!なんてしょうもない演出はないのは当然だが、必要以上にキャラクターを魅力的に見せようという意図がある部分がない。
これは卓越したデフォルメ力を持つ、キャラクターデザインを担当した吉崎観音の手腕によるところが極めて大きいだろう。頭身が低く単純化しつつも魅力的なキャラ造形は余分なものをそぎ落としており、「癒し」に特化しているようでもある。純粋に見ていて可愛い、癒される。そんな感情を視聴者に持たせてくれる。ここまで混じりっ気なしでそういう感情を喚起させるアニメ作品というのは例がないのではないだろうか。大抵はキャラクターを性的に魅力的に見せようとする「あざとさ」が存在するのだ。だがこの作品には全くそれが存在しない。「萌えアニメ」というものが持つ、ある種の「くだらなさ」「俗さ」「即物性」を排除しているのである。それゆえ、このアニメを観ている視聴者にしょうもない気分にさせたりはしない。下半身に訴えかけて視聴者を惹きつけようとしたりはせず、完全に内容で勝負しているとも言える

そして、元々は動物だったというキャラクターたちであるので、話す言葉というのはどこまでも純粋で素直。人間が持つような邪な感情などはほとんど表面化しない。まるで幼児が見るような、例えばアンパンマンなどのような作品と馴染むような、性的な部分だけではなく、人間社会に存在する邪な要素を全てオミットした世界なのだ。
その上でここが凄いと思う点なのだが、そんな綺麗な世界でありながら、決して幼児向け作品という感じは受けないこと。こんな綺麗事ばかりの世界の作品を、普通なら大人は真剣には観ないだろう。だがこの作品は多くの30代男性の心を掴むことにも成功した。アンパンマンではこうはいかない。これに関しては4番目の「考察し甲斐のあるストーリー」であることも大きいのでそこに譲る。

気取らない作風

けものフレンズは一切の「気取り」が存在しない作品だ。
ほとんどあらゆる場面の台詞や演出においてそれは当てはまる。気取って格好をつけたような台詞、「間」を過剰にとるような演出、緊張感を煽るようなカメラワーク。そんなものはこの作品には存在しない。そうなっている理由には大きく分けて2つある。

まず登場人物のほぼ全てが元動物であること。彼女らは元々持っていた動物としての習性を色濃く残しているため、何に熱中しているかといえばそれに従ったものだ。つまり本能。動物その存在全てが嫌いだ!なんて人間はそういないと思うが、それは動物というのは社会規範や見栄、世間体などに囚われることなく「自分がやりたいことにただ夢中である」という本能に従っているため、その行動の全てが純粋であるからだと思う。人間が感じる煩わしい感情に惑わされることなく純粋に生きている動物たちに人間はどこかで憧れを抱き、それらを見ると癒されるのだろう。
これがこの作品にもそのまま当てはまるのだ。その行動や言動全てが純粋で素直なものばかり。心が真っ白なキャラクターたちは観ていて単純に心洗われるし、微笑ましい。そんなキャラクターばかりなのだから、格好つけた台詞や仕草などは存在しないのだ。極論を言えば、動物が好きならばこの作品の登場キャラほとんどに好感を持てるはずなのだ。合間に挟まれる各動物園の飼育員の解説もまたキャラを魅力的に見せるのに一役買っている。

2つ目はCGのクオリティがいい意味で低いこと。
はっきり言ってけものフレンズのCGクオリティは微妙。表情の変化は眉毛や口を動かしたり瞳孔を小さくしたりするくらいでしか表現できていない。表情筋がまるで動いていない。なんか動きが妙なところも探せば色々ある。例えばかばんちゃんがジャンプして水に落ちるシーンや、カバが水から現れるシーンや、キタキツネが温泉の源泉の装置をいじるシーン、ボスが雪山仕様にバスを改造するシーンなどでは動きを見せないようにして誤魔化している。低予算アニメ臭はどうしようもなくにじみ出ている。
だがだからこそ、このほんわかした世界観にマッチしている。どの場面を切り取っても何か間抜けであるのだが、「本当の二枚目は三枚目にもなれる」という言葉があるように、人は隙のある何かに好感を持つようになっているものだ。低クオリティのCGを必死に動かして制作しているのは、大予算で凝った演出をする作品にはない真逆の魅力があるのは確か。もちろん、低クオリティであればいいなんてことは普通あり得ないことで、この作品に関してのみ奇跡的にマッチしたというだけの話だ。もしこれを狙ってのCG造形だったとしたら恐れ入るとしか言いようがない。CGのクオリティは低くても、元動物の特徴を上手く捉えつつデフォルメしたデザインそのものは非常に可愛らしく高い完成度であるので、嫌悪感や陳腐さはほとんど感じないというのも恐らくあるだろう。

というわけで、ちょっと微妙なCGで描かれる元動物のキャラクターたちが織りなす純粋で優しい会話劇は過去のアニメを見渡しても例がない唯一無二の魅力があった。この作品のヒット理由としてここは落とせないところだと思うのだ。また、イマイチなクオリティののっぺらいCGアニメだからこそ、上記の「萌えアニメでない」という点が強調されているというのもある。

サーバルの存在

1話から最終話まで主人公であるかばんちゃんと同行するサーバルキャットのサーバル。このキャラの存在もまた、けものフレンズのヒットの理由として絶対に欠かすことができない。

まずその声優。尾崎由香という女性声優を起用しているが、どうやら彼女は女優から声優へと転身した経歴を持っているようで、今のところ声優としての出演はサーバルを含め片手で足りる程度しかないらしい。自分も初めて聞く名だったのだが、この声があまりにもサーバルに合っていた
この声からは100%の「陽」の気しか感じられない。ネガティブさや邪悪さとは完全に無縁で、聞いていてとてつもなく気持ちがいい。笑い声を「あはははは」、痛がり声を「うぎゃーーー」と、文字をそのまま読んだような演技をしてしまっているが、それが全くおかしく感じない。上記の気取らない作風というのはこのサーバルこそが最も体現している。
自分の取柄を見つけられず自信のないかばんちゃんを全面的に許容するその様は聖人(聖獣?)とすら言えるものであり、多様性を認める心、他者を純粋に思いやる心、そんな、いくら理屈ではわかっていてもなかなか持つことができない道徳的規範の化身とすらも言える。1話から最終話までほとんどの場面で彼女が絡んでくるため、必然的にほとんどの場面で彼女に癒されることになる。このアニメを見て彼女に嫌悪感を持つ人間は果たして1人でもいるのだろうか?そんな風にすら思ってしまう。

相方となるかばんちゃんの方のCV担当は内田彩。女性声優として中堅と言える程の充分なキャリア、実力があり(同じ時期にあいまいみーのまい役をやっているのがまたギャップが凄い)、彼女が収録現場をリードしていったという裏話も聞いた。つり合いを取るような意味合いでもう一人の主役と言えるこのサーバルに関してもある程度の中堅声優が担当することになった可能性もなきにしもあらずだが、新人声優である尾崎由香を起用したことはグレートな判断だったとしか言いようがない。経験が浅い新人声優がゆえに他の作品のキャラの顔が浮かぶようなことが一切ないのだ。それを抜きにしても至上のマッチなのは疑いなく、この物語、このキャラクターにはこの声しか考えられないという、針の穴を通すようなマッチングだったと思う。これもまたけものフレンズが起こした一つの奇跡だったに違いない。

考察し甲斐のあるストーリー

4つ目はこれだ。これだけはまあ、よくこの作品においてはよく言われていることなので珍しくはない論になるが、やはり欠かすことはできない。
上記で「普通はこんな純粋で綺麗な話など大人なら真剣に見ない」と書いたが、これを最も食い止めているのはこの要素だと思うのだ。

1話目から感じる謎、不穏。この上なく素直で純粋な世界に反してそんなものがそこかしこから臭ってくるのである。全体的な作風が緊張感のないものであるがゆえにそれはますます際立っている。
ニューダンガンロンパV3の評価でも書いたが、物語において存在する大きな謎というのは、それだけで観る側を引き付けるのだ。かばんちゃんとは何者なのか?なぜジャパリパークの施設は朽ちているのか?なぜボスことラッキービーストはヒトとだけ会話をするのか?セルリアンとは何なのか?何を隠そう、自分は1話を見てこれらの要素が気になって気になってしょうがなかった、というのが、このアニメを最後まで食い付くように見た理由だ。

エンディングで流れる「ぼくのフレンド」はオープニングの陽気さとは打って変わり、優しい歌詞の中にも寂寥を思わせるものになっているが、これがまたちょうどこの作品の「不穏さ」を上手く表しており、それと同時に主役2人の深い絆を表しているのがまた憎い。OPでは作品の陽の部分をこの上なく演出し、EDはその逆。毎話癒されつつもEDを聞く時には「二人が別れてしまうような哀しい結末が待つのか?」と想像せずにはいられない。こんなのほほんとした話ばかりなのに結末はシビアなの?マジで?という感想が毎話出てきてしまって、もう次話が気になってしょうがなくなってしまう。結末を見届けなければ気が済まなくなってしまう。

このミステリー要素が存在せず、ただただかばんちゃんとサーバルちゃんが他のフレンズたちと交流するロードムービー的な流れだけでもヒットはしたかもしれない。だがここまでの爆発的ヒットとなった理由として、謎が謎を呼ぶミステリー要素も絶対に欠かすことはできない。アニメの方のダンガンロンパ3の視聴時でもひしひしと感じたことだったが、無数の不特定多数の人間と討論できるインターネットというのは、考察の場に極めて向いているのだ。そして1クール、3ヵ月かけてそれが徐々に明かされていくテレビアニメという形式はそれに時間的余裕を与え、考察の風潮は広がり、強まっていくのである。1クールアニメにおいて「何か世界に関して大きな謎を設定する」というのは安直だが、しかし強力な吸引力となり得る。この作品はそれを表面上は全く感じさせない癒されアニメの衣で覆い隠しているのがまた異色なのであるが、「極度の癒し」に「世界全体から感じる不穏」というまるで背反する要素が奇跡的にマッチしたのもまた、けものフレンズという作品においての奇跡だったのだろう。

というわけで4つの項目に分けて自分なりにヒットの理由を解説してみた。
奇跡奇跡と連発してしまったが、実際、アニメにおいてここまでのヒットとなるのは奇跡が重複しないとあり得ないことだと思う。創作の世界というのは残酷で、時代を重ねれば重ねるだけ、新鮮さ斬新さというのを生み出すのは困難さを増していく。実際、近年はどのアニメを見ても大概は既視感を覚えるものばかりだ。しかし2010年代後半においてもそれを微塵も感じさせなかったことには賞賛しか出ない。

3月、最終話終了後に描いたイラスト。一番力を入れたのは…木。

項目別評価

作画は6としたが、これはあくまで絶対的基準であり、この作品に合っているという意味では10になる。構成に関しては、例えば、いつの間にか主役2人が、時折ボスの記録として話すミライさんの存在を実際に存在する人物として受け入れていることや、PPPの話でのプリンセスが拗ねる流れがやや強引だったことなど、少々雑な部分も見受けられた。
とはいえ、ひねくれものの自分ですらほとんど手放しで空前絶後、唯一無二と言って褒めるしかないレベルでの作品。この世界やキャラの魅力に比肩するものはそうない。目新しい物が生まれず行き詰っている感のある昨今のアニメ界に、ある種の革命を起こしたとさえ言える。これだけ人気になると続編などが望まれるのかもしれないが、恐らくこのヒットは今回色々な要素が組み合わさっての奇跡であり、狙ってのものではなかったはずなので二度目はないだろうと思える。仮に同じような作風でアニメを作ってもマンネリは免れないはずだ。なんかこれもニューダンガンロンパV3の記事でも書いたが、好きな作品だからこそ、後腐れなくすっぱり終わって欲しいとも思う。

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