2001年宇宙の旅(映画) -凡人の感想・ネタバレ-

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執筆日:2015年7月17日

評論

古今問わず映画の感想を書く、というスタンスだが、なんだかんだほとんどが2000年以降の作品ばかりだった。しかしPSストアでの100円セールで6本借りた中でのラスト1本、1968年、SF映画の古典、金字塔として知られる「2001年宇宙の旅」の感想だ。今まで1980年のシャイニングが最古だったが更新だ。そして全く意図していなかったがシャイニングとこれは監督が同じ、スタンリー・キューブリックだ。

いつもなら作品の流れを解説するのだが、この作品を詳細に解説しているサイトなどいくらでもあるし、その辺はざっくりと行き、感想に多めにしたい。

映画の内容は極めて独自なものとなっている。人物同士の会話がほとんどなく、冒頭に到ってはまだ人類がヒト、ホモサピエンスまで進化する前の類人猿だった頃の様子が随分長く映される。ここで猿の一匹が地上から現れた謎の物体、「モノリス」に遭遇し、他の猿にはない、道具を使うという知恵を覚える。
その後一気に時代は飛ぶ。宇宙旅行も行うようになった人類は月でまた「モノリス」を発見する。発掘されたモノリスに太陽光が当たると、モノリスから超音波のようなものが発生する。これは木星に送られた電波だった。
さらに少しの時間が経過。宇宙船ディスカバリーは船長のデビッド・ボーマンとフランク・プールたち5人の乗員たちを乗せ、木星探査へと向かっていた。ボーマンとプール以外の3人は冷凍睡眠状態で、という奇妙な旅だった。ディスカバリーには人工知能の「HAL」が搭載されており、HALは絶対に間違いが発生しないという高性能な人工知能で、ディスカバリー乗員をサポートしていた。

宇宙の旅の途中、HALが間違いを冒したことをボーマンとプールは疑問に思う。絶対に間違いを冒さないはずのHALが間違いを冒したことに危惧を覚え、HALを一時的に停止させることを二人は決める。二人はそれをHALに気付かれないように企てたのだが、読唇術によりそれを知ったHALはボーマンを除き殺害してしまう。残ったボーマンは策を練り、どうにかHALをリセットし、敵対状態を解除した。
それと同時に、宇宙船に隠されていたメッセージが起動する。この旅は、月で発見したモノリスがなぜ木星へ電波を飛ばしたのか、その理由を確かめる、もっと言えばモノリスを地球や月に設置した知的生命体の存在をどういう形であれ確認することこそが真の目的であるということをボーマンは知る。
一人だけ生存したボーマンだが、そのまま探査を続行。木星の衛星軌道上にて、太古の地球、月に続く第3のモノリスと出会う。そのモノリスと向き合ったボーマンは長い長いトリップへといざなわれる。星が瞬き、猛スピードで通り過ぎるかのような演出。いつの間にかどこかの部屋の中にいたボーマン。誰か分からない老人がいたかと思えばどうやらそれもボーマンだ。そしてさらに年を重ねた寝ている老人がいたかと思えば、いつの間にかそれもボーマンのようだ。先ほどまで中年だったボーマンがいつの間にやらベッドに臥した老人なわけだ。そしてそのボーマンの目の前にまたモノリスが。それと向き合った後、今度はボーマンは赤ん坊の姿になって宇宙に浮かんでいる。ここで、冒頭でも流れた、作品を象徴する曲である「ツァラトゥストラはかく語りき」がまた流れ、スタッフロールに。

全編通して会話が少なく、クラシック音楽がよく使われ、無音部分も多いという、非常に特殊な雰囲気の映画になっている。
この作品、少なくとも映画だけ見ても到底監督の意図するところが分かるわけがないようになっている。視聴後に知ったところだが、「難解な映画」としてもよく知られているらしい。当然、自分も視聴直後は「何だこりゃ?」状態だったので、ネットで解説を流し見だが少し見た。
物語の流れだけ見れば、そう難解でもない。要するに、「3つのモノリスを設置したどこかにいるであろう高位生命体が、人類の進化を促した」ということだ。最後、赤ん坊になったボーマンは人類よりも先に進んだ存在になったということを表している。
これらは映画版ではなく、小説版の「2001年宇宙の旅」では普通に読者に分かるように語られているらしく、この作品を真に知るためには小説版を読むのも必須、というのが一般的な評価なようだ。確かに、極端に会話も少ないこの映画を見ただけではあまりに分からないことが多すぎる。映画と小説、2つのメディアで存在するが、この作品、どうやら映画が原作、小説が原作、というどちらかが原作というものではなく、映画の監督であるスタンリー・キューブリックと小説版の作者であるアーサー・C・クラークがアイデアを出しあってまとめたという、いわば対等な存在であるらしい。ならばなおのこと、片方だけでは完成しない作品ということだろう。とはいえ小説を読むところまでは食指が伸びなかったが。

物語だけ見れば、解説ありきとはいえそう難しい話でもないが、とにかくこの作品は演出面がいろいろぶっ飛んでいて、それが特徴だ。冒頭での猿たちがウホウホ言ってるシーンをやたら尺取ったり、ボーマンが宇宙船において無表情でポッドを操作するシーンとかもやったら長い。そして随所で使われるクラシック。演出は特徴的だが、あまりに静かなので、基本的に眠くなる映画だ。
恐らく初視聴で一番印象に残るのが、冒頭数分の暗転のまま流れたり、モノリスが現れたりしたときに流れるクラシック曲「レクイエム」だ。こんな曲。はっきり言って、聞いていて気持ちのいいもんじゃないのだが、この曲は何度も作中で、それも一番長く流れる。テーマ曲の「ツァラトゥストラはかく語りき」のほうがもちろん有名だろうけど、実際視聴してみればこっちのレクイエムという曲という方が印象に残るのは間違いない。

映画単体としてみれば、解説ありきな作品はどうなんだろうな?と思う。今でこそネットがある時代だから自分のように簡単に作品の意味するところを知ることができるけど。なにやら本来はもっと、科学者たちの台詞などが入っていてそれによって作品の核心を推測できるようになっていたものだったのだが、監督があえてカットしたとのこと。そういう自己満足は正直、あまり肯定できるものじゃない。ただ、最後のボーマンのトリップシーンとか映像としては目を引くものがあり、1968年という時代を考えると映像面で凄いのは恐らく間違いない。最後の仮に自分が生まれるのが50年早くてこの映画をリアルタイムで見ることができたとしたら、どういう感想を持っただろうか。意味わからん!だろうか、映像すげえ!だろうか。多分両方か。

人間が肉体を捨てた高次元の生命体として新たなステップを踏むまでの話、というのは宇宙世紀でのガンダムのニュータイプ論、あるいはガンダム00でのイノベイター論なんかにも通じるな、なんても思った。
ということで調べてみたら、まさに富野由悠季は色々な場でこの作品を引き合いに出しているようだし、ガンダムだけじゃなくイデオンなんかも影響がモロだそうだ。ガンダムに出てくる「ボール」はこれの船外作業用ポッドが元となったデザインだそうで。ポッドは見てるときまさに思ったんだよなあ、ボールみたいだな、って。最後のトリップシーンの光の演出とかも、ガンダム作品だとままある「イメージ空間」を彷彿とさせるものでもあった。
富野由悠季は関わっていないが、あのガンダムUCでアムロ、シャア、ララアが意思だけの存在になってたというのは、ほとんどこの作品での進化と同じようなもんなんじゃないだろうか。

ところで、小説が原作であるシャイニングも本来の解釈とは違ったので原作者の不評を買ったという話を聞いたことがあるが、これに関しても、小説作者アーサー・C・クラークが映画を見ている最中に席を立ち涙した、なんて逸話があるようで、キューブリックって人は我が強い監督だったんだろうなあ。

項目別評価

独自性は高い。少なくとも、これと同じような雰囲気の映画は見たことがなく、オンリーワン。ただ、だからといってそういい意味でもない。監督が演出に酔っているのが透けて見えるというか、これ見よがしというか、わざと解説を省いて難解にしたという事実もあるようで、悪く言えば「独りよがり」とも言える作品に思える。個人的に気になったのは、、リゲティというクラシック音楽家の作品である「レクイエム」という曲の多用。不気味な曲なのであまり続けて聞いていると頭おかしくなりそうなもんなのだが、冒頭に画面真っ暗なまま延々と流すのとかいかにも「これにも私の意図が込められているんですよ〜ぐふふふ」って感じで、いわゆる監督のオ○ニー、癇に障る演出で不快だった。いくらなんでも冒頭の演出は長すぎる。画面がずっと暗くて不気味な音楽が流れ続けて、PS4がぶっこわれたのかと思ったほど。
視覚的な演出面において、時代を考えると凄いことやってるんだろうなってのは十分に伝わったのも確か。最後のトリップシーンとか長いけど凄い。視聴した人間の間での考察もはかどりそうな作りで、後の世に多大な影響を与えた作品というのも頷けるものだった。
現代に見てバイアス無しで評価するのは難しいが、解説を見たり、小説を見て補間することまで含めれば、きっと楽しめる作品。
実際のところ時間のかかる小説を見たいとなるまでにはならなかったが、「2010年宇宙の旅」という続編もあるようで、それはまだ普通の映画であってこの作品で語られていない部分が普通に明かされているとのことで、機会があればそれは見たい。

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