永遠の0(映画) 評価 -凡人の感想・ネタバレ-

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執筆日:2015年7月31日

評論

7月31日のロードショーで視聴。原作は百田尚樹の小説の映画化だ。
邦画っていうと基本的にホラー映画くらいしか興味ない自分だが、3時間近くの大作、以前から名前は知っていたし見てみるかということで、じっくり最初から最後まで視聴した。

ストーリー解説。
浪人生の佐伯健太郎(三浦春馬)と姉の佐伯慶子(吹石一恵)は、祖母の葬式のあと、自分の祖父の賢一郎(夏八木勲)から、賢一郎が実のところ血の繋がりのある祖父ではなく、祖母の再婚相手だったことを知る。そして血のつながりのある本当の祖父、宮部久蔵は第二次大戦で特攻隊として死亡したことも。
その後、姉と共に実の祖父のことを調べ始める健太郎。当時の祖父を知る人間のほとんどは「臆病者」だったと一蹴するが、一部の人間はそうではないと思っているようだった。物語は、宮部を敬愛する3人の戦争経験者、井崎(橋爪功)、武田(山本學)、景浦(田中泯)らに健太郎がインタビューをし、彼らの回想の中で宮部(岡田准一)の生き様が描かれる。

まず、井崎という、病院生活を続けている老人から話によると、井崎が命をないがしろにする発言をした際にひどく怒鳴られたエピソードを語ってくれた。「命はそんなに大事か、自分は華々しく死なせてほしい」と言った井崎に対して宮部は激怒したのだった。
次に、武田は、宮部は特攻隊の選出試験のようなものの教官を担当していたが、ことごとく「不可」の判定を出していたエピソードを語る。しかし、仲間が事故死したときに、上官に殴られながらも死んだその男の尊厳を守る発言をした宮部を見て、その真意を察したのだった。つまり宮部は「不可」を出すことで武田たちを特攻隊に行かせようとはしなかったのだ。
最後に、景浦という極道の親分となっている男に話を聞くと、宮部は特攻隊の護衛をやる役割になった時は憔悴しきっていて、もはや以前とは違う人間であったことを知る。自らの部下が特攻隊で日々死んでいくことに精神を病んでいたのだ。特攻隊が死ぬことを「仕方ない」と言った景浦に対して宮部は激怒する。そして、そんな宮部がついには特攻隊に志願して、景浦は特攻隊の護衛役をやりながらも、宮部の最後を見ることができなかったことも。さらに、宮部が特効のために乗ったゼロ戦は、本来宮部でなく別の人間が乗るものであり、またその人間、宮部が本来乗るはずだったゼロ戦に乗った人間はエンジントラブルにより特効を免れ、生き残ったことも知る。そしてその人物というのが、血のつながりのない祖父、賢一郎であることも。

最後には賢一郎から話を聞くことになった健太郎。つまり賢一郎は宮部の代わりに生き残ったということだ。賢一郎は宮部の乗るはずだったゼロ戦から賢一郎にあてた手紙を発見し、そこには宮部の妻の松乃(井上真央)をよろしく頼むという遺言が残されていた。エンジントラブルを認識した上で、宮部は賢一郎を生かしたのだった。それから賢一郎は足しげく松乃のところに通い、最初は彼女から拒絶されつつも、松乃と結ばれたということだった。
全てを知った健太郎は現代の空で宮部のゼロ戦の幻を見る。そしてゼロ戦が敵艦に特攻する直前、 笑みを浮かべる宮部のシーンで映画は幕を閉じる。

以下感想。
この作品を語る場合まず「特攻隊への賛美」云々の話題が出てくるようで、宮崎駿やら誰やらがどうこう言っただのと調べると出てくる。
が、自分が心打たれたのは宮部の精神性だ。「命を大事にする」という当たり前すぎることを、戦争という異常事態でも貫いたという、そこだ。戦争関係にはとんと疎いので、当時の特攻隊というものの実態などは知らない。が、「無論誰もが死にたくないとは考えてはいるが、やらなきゃいけない空気はあった」くらいなんじゃないかと思っているくらいだ。最も心に迫ったのは、井崎が「そんなに命が大事なのか?」と宮部に迫るところだ。それに対して当たり前だバカヤロー!とばかりにまだわからないかと宮部は怒鳴りつける。いや、これって冷静に考えると凄い会話してるよなと。「命が大事なの!?みっともないよ?」って言って「あたりめーだろアホか!」と返すわけだ。どういう会話だと。

ここからは自分が常日頃考えている持論の展開だ。常日頃こんなこと考えてるとか引くわ…とか言われても実際考えているのでしょうがない。なお、ニートや引きこもりを肯定するような書き方をするが、自分自身はそうではないのであしからず。ただ、詳しく書くのははばかられるのでやめておくが、昔からずっと、精神的に常に切羽詰っているのは確かだ。おそらく大多数には共感を得られない論を書く。
漫画のシグルイの感想でも書いたのだが、現代日本は自殺者が年間3万人に迫るという異常事態でありながら、また、確かに直接的な命の危険などとは普通に生きていればまず皆無の時代でもあるのもまた確かであって、現代の人間が第二次大戦中の兵士より幸せなのか?と考えた場合、まあそれはある側面として「幸せである」と言い切ることは出来る。
が、悲しいかな人間というのは「比較する」生き物であるのだ。この「比較」が全ての不幸の元凶であることがほとんどだ。はっきり言えば人間は比較という感情さえ消えてしまえば、大半は幸福になれる。現代は「幸福」の基準が高すぎるのだ。命の危険はないはずなのに、例えば他人と比べて良い就職先に勤めていないとか、生きていくだけにはどうにかなる給料をもらっていても足りない、不幸せだとか考えてしまう。それに例えば「恥をかいた」だとか、「プライドを傷付けられた」とかで「死ぬほど」の屈辱を受けたとしても、本当に死ぬことはない。人は恥とかそういったもので死ぬことはない。自死を選びさえしなければ。現代を生きていれば「死ぬ危険はほぼない」はずなのだ。この辺が、現代における最低限の保障となっているのは疑いがない。
金だけは生きていくのには必要だが、日本なら仕事なんていくらでもある。過去、日雇い労働で倉庫作業や工場でのピッキング作業、引越し業などで奴隷のようにクソのような扱いをされる、底辺とも呼べるような仕事を経験したから言い切るのだが、仕事なんてえり好みしなければこの日本なら必ずある。毎日どこかにはある。実際、そういう仕事の中で、50代でも日雇いで食いつないでいるような人もおり、正直馬鹿にしつつも、ある意味畏敬の念も抱いたものだ。

人間は比較する生き物だ。そして「死んだ人間」と比較した場合、「生きている人間」は、よほどの事情がない限り、例えば交通事故後、ずっと意識不明の昏睡であるとかといった例外除けば、「絶対的に優位に立っている」のである。2011年に死去したあのスティーブ・ジョブズ、最近死去した任天堂の岩田社長というような社会的成功者、後世に名を残す傑物と比較して、例えばそこらのニートや引きこもりが優位なのか?と考えた場合、その人間の身体が健康であるのならば、それはある一面確かに、「優位に立っている」のだ。なぜなら死んでいないから。生きているから。動けるから。生きている限りは五感で色々と感じ取れるから。死んだらその人物の影響力などはさておき、どんな偉人でもその瞬間から指一本動かせないから。
だから、よく言われる死ぬ気になれば何でもできるという精神論はある側面、間違いなく事実なのだ。こう言うと「何でもしなくちゃいけないくらいなら死ぬ」とかいう反論も出る。それも否定しない。人間にとって自己の尊厳ほど大事なものは存在しない。それを失ったら死ぬほど苦しむというほどに。が、死ぬ気になれば何でもできるのもまた事実。だって死ねば何も出来ないから。
生産性のないクズに生きる価値がない?確かにそれも事実だろう。が、そういう人間でも飯を食えば上手いし、眠れば心地いいし、○○ニーすれば気持ちいいだろう。ならば、周囲の迷惑はさておき死ぬことはなく、生きていてもまあいいんじゃないだろうかとも思う。許される限り。
だって死んだら全てが終わりだから。死んだら何もかもが終わりだから。何もできないから。
誰しも人間、生まれた時は祝福されて生まれてきたに違いない。なら、自ら死ぬことはない。例え生きていて何も良いことがないとしても、死ぬくらいならば生きていてもいいだろう。
現代社会における幸せとは何か?おそらく、「友人に囲まれて」「彼女や妻がおり」「充実した趣味を持ち」「家庭を持ち」「給料の良い職場に就職する」ことだろうか?そんなの基準が高すぎる。だから、「生きている」だけで満足できるようになれれば最強じゃないか。それは限りなく不可能に近いかもしれないが、生きていれば最悪、空気は吸えるし、水でも飲んで美味い!と思えるかもしれない。死んだら何もできない。死んだら何もできないのだ。どんなにみっともなくても、死ぬくらいなら生きていたほうがいい。
政治家や研究者など、社会的地位を持った人間がある日スキャンダルなどにより地位を失い、自死を選んでしまうこともある。もちろん、彼らが積み重ねてきたものを全て失ったことによる絶望により死を選んだのだろう。それは第三者からすれば計り知れない。おそらく想像の何十倍、何百倍もの絶望なのかもしれない。が、それでも生きていれば飯も食えたし、風呂に入って気分がよくなることだってあったかもしれないし、快眠できれば気持ちよかったかもしれない。ならば、彼らは死ぬべきではなかったのだ。それがどれだけ、どれだけ取り返しのつかないものだとしてもだ。あえてここは強調したい(さすがに重度の精神病になるなどした場合ならば、例外とするべきだろうけれども)。

あらゆる行動は生あってのもの。命あっての物種。生が消える、死が訪れる。その意味の重大さを、人間はふと、忘れかけてしまうのではないだろうか。だが、誰しもが死を覚悟したとき、死を身近に感じたとき、その重大さを、生の重さをきっと知る。その重さを、そうそう命が脅かされることなどない現代社会でも常日頃から感じられるように心がければ、決して無為に人生を過ごすことはなくなるのではないだろうか?この辺の価値観は、あらゆる人間の究極の命題になりうる部分だ。長年生きてさえ得るものがなく、何も持っていなくても、あるいは逆に、努力により勝ち得た全てを何らかの理由で全て失ったとしても、生きていられるか?生きているべきか?考えるまでもない。生きているべきなのだ。周囲にどう思われようと。耐え難い屈辱に苛まれようと、だ。幸せの基準なんぞ、徹底して下げるように心がけるべき。恥も外聞も犬にでも食わせろ。生きているということだけで優越感を感じろ。それだけで十分だ。結果それが人生を豊かにすることに繋がるはずだ。

こういうことを年中考えている人間なので、この作品での宮部の精神性が胸に響いた。死んだら終わり。親しい人間が悲しむ。そんな当たり前のことを問答しなければいけない戦争という異常事態において、ただただ「命を粗末にするな」という点だけ貫き通す。それは人間として、生物として間違いなく正しい。よく漫画などフィクションで出てくる台詞なので安っぽいかもしれないが、、生き恥をさらしてても生きることが、結果、最も正しい生き方に違いないのは事実。死ぬことこそが究極の負け、全ての生ある人間に対して、ある種「敗北」することに他ならないのだから。

とここまで、恥ずかしげもなく持論を書かせてもらった。これは身体が健康である前提で言えることで、病苦で苦しんでいる人間などにはあてはまらない考え方だろう。やや極論じみたものになってしまったので、もう少しソフトに落とし込むならば、死んでしまうと本当に一切の何もができなくなってしまう。その恐ろしさを必要以上に自覚しつつ生きれば、生き方にも張りが出るのでは?ということ感じになるだろうか。とにかく強調したいのは死んだら何もかもが終わりということだ。何もかもが終わる。それは恐ろしいことだろう。死んでしまうとそんな恐ろしい状態になってしまったと自覚することもできないということになる。それがまた恐ろしくはないだろうか。

この作品を語る場合、特攻隊に対する考え方だとか、誰よりも生きたかった宮部がなぜ特攻隊を志願したのか?とか、彼が最後のシーンで笑ったのはなぜ?とかそういうのが多くの場合は論点に挙がるようで。そこからすると随分ズレたものをこの作品から感じ取ったと思う。「宮部は自分が死ぬことが怖かったのではなく、死ぬことで妻と子供が不幸になることを恐れていた」と賢一郎が語るので、上で書いたような利己的極まりない死生観とはまた別のものかもしれないが。しかし利己的だろうがなんだろうが、命が大事、死んだら終わりっていうのはこの世の絶対不変の真理だ。

ただ、確かにそう言われてみれば、確かにそのあたりは考証の余地があるんだなと他のサイトなどを見てようやく認識した。
志願したのは、景浦に激情的に語ったことから分かるように、自分だけ生き続けることに耐え切れなくなったのだと理解できるが、最後の不敵とも言える笑みを浮かべて特攻するシーンは、言われてみれば彼の生き様からすれば余計な部分かもなあ。そのラストシーンだけ、今の今まで出てこない米兵が出てきて、さらには彼らがやたらとあわてふためくのもあって、単に「日本人がアメリカ人を一泡吹かせるシーン」を入れたかっただけのようにも思える。ラストはいらなかったかもなあ。

項目別評価

半ば邦画アレルギー気味な自分だが、この映画は面白い。素直にそう思えた。戦争に対するスタンスとか考え方とか、右だとか左だとかは関係なく、宮部久蔵の精神性が自分の持つ死生観に触れたという感じだ。「命は大事にするべき」という当たり前なことを右にならえせず通す、という部分に心打たれた。

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